宮越家について 初代・米屋七兵衛から八代・宮越要三郎

<解脱庵梵鐘銘文(中泊町博物館蔵)>

<初代・米屋七兵衛>

宮越家は、代々金木組代官手代や尾別村庄屋を務めた家柄であり、米屋源兵衛家が総本家となります。同家は、加賀国江沼郡(石川県加賀市)宮ノ越出身で、江戸時代前期頃尾別村に移住したと伝えられます。初代米屋七兵衛(ヤマシチ)は、正徳年間(1711~16)前後源兵衛家から分家しました。

 

<二代・米屋七兵衛>

元文4年(1739)尾別飛龍宮(現神明宮)に祠官松橋伊太夫を師匠とする寺子屋を開設し、飯米などを支給しながら村内子弟に読み書き算盤を習わせたとされます。

 

<三代・米屋七兵衛>

宝暦4年(1754)「解脱庵梵鐘(大正10年改鋳)」を寄進しました。

 

<六代・米屋七兵衛>

天保飢饉の最中の天保4年(1833)弘前藩に二百両の御用金を上納しました。

 

<七代・米屋七兵衛>

明治3年(1870)弘前藩士の救済措置として実施された、余田買上げ(帰田法)の際に三十七町歩に及ぶ田畑を献納しました。その褒美として、藩主より「三嶋暦手御茶碗」を拝領しました。

<八代・宮越要三郎>

嘉永4年中里村井沼家(加藤家とする説もある)に生れました。藩校教授工藤他山が中里に開いた寺子屋で学んだ後、弘前の豪商金木屋で奉公に励みました。明治2年17歳で宮越家に婿入りした要三郎は、金木屋時代に培った知識やネットワークを基に商業・金融業を拡張し、宮越家を近代地主へと成長させました。宮越家主屋及び文庫蔵、及び主屋南側に広がる大石武学流庭園などは、要三郎の時代、こうした家業の拡大を背景として築造されたものと考えられます。

教育や文化にも力を注ぎ、明治14年(1881)尾別小学校が開設される際は、学校用地を無償で提供したほか、校舎新築費・学校運営費をはじめ、教員の給料まで助成しました。また「尾彦」の雅号で、書・短歌にも堪能でした。

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宮越家 離れ/庭園 Miyakoshi House Annex/Garden

青森県中泊町

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宮越家 離れ/庭園 大正浪漫かほるステンドグラス
宮越家について 初代・米屋七兵衛から八代・宮越要三郎

<初代・米屋七兵衛>

宮越家は、代々金木組代官手代や尾別村庄屋を務めた家柄であり、米屋源兵衛家が総本家となります。同家は、加賀国江沼郡(石川県加賀市)宮ノ越出身で、江戸時代前期頃尾別村に移住したと伝えられます。初代・米屋七兵衛(ヤマシチ)は、正徳年間(1711~16)前後源兵衛家から分家しました。

 

<二代・米屋七兵衛>

元文4年(1739)尾別飛龍宮(現神明宮)に祠官松橋伊太夫を師匠とする寺子屋を開設し、飯米などを支給しながら村内子弟に読み書き算盤を習わせたとされます。

 

<三代・米屋七兵衛>

宝暦4年(1754)「解脱庵梵鐘(大正10年改鋳)」を寄進しました。

 

<六代・米屋七兵衛>

天保飢饉の最中の天保4年(1833)弘前藩に二百両の御用金を上納しました。

 

<七代・米屋七兵衛>

明治3年(1870)弘前藩士の救済措置として実施された、余田買上げ(帰田法)の際に三十七町歩に及ぶ田畑を献納しました。その褒美として、藩主より「三嶋暦手御茶碗」を拝領しました。

 

<八代・宮越要三郎>

嘉永4年中里村井沼家(加藤家とする説もある)に生れました。藩校教授工藤他山が中里に開いた寺子屋で学んだ後、弘前の豪商金木屋で奉公に励みました。明治2年17歳で宮越家に婿入りした要三郎は、金木屋時代に培った知識やネットワークを基に商業・金融業を拡張し、宮越家を近代地主へと成長させました。宮越家主屋及び文庫蔵、及び主屋南側に広がる大石武学流庭園などは、要三郎の時代、こうした家業の拡大を背景として築造されたものと考えられます。

 

教育や文化にも力を注ぎ、明治14年(1881)尾別小学校が開設される際は、学校用地を無償で提供したほか、校舎新築費・学校運営費をはじめ、教員の給料まで助成しました。また「尾彦」の雅号で、書・短歌にも堪能でした。

Miyakoshi House Annex/Garden