宮越家について 九代・宮越正治から十二代・宮越寛

<九代・宮越正治>

明治18年(1885)要三郎の三男に生まれました。明治37年18歳の時、栄村湊(現五所川原市)の名門平山為之助実妹イハ15歳を娶るとともに、このころ東京牛込に居住していた奥田抱生に師事しました。後に「機山」と号し、書画・漢文・骨董はもとより、建築から庭園に至るまで如何なく発揮された正治の審美眼は、抱生の下で開眼したと思われます。夫人のイハもまた、旧制弘前高等学校教授の彌富破摩雄に短歌を学び、「麗子」の雅号を拝領した一流の歌人です。

 

大正7年(1918)兄二人の早逝により家督を相続した正治は、地主として農林業経営にあたるとともに、銀行や百貨店、酒造・鉄道・電燈など新たな成長分野に投資し、家業拡大に取り組みました。

<宮越正治夫妻と安達謙蔵逓信大臣>

また、実業の傍ら、全国の文化人らと交流を図っていた様子が、大量に残された書簡類から明らかとなっています。横山大観・下村観山・木村武山・寺崎廣業・小川芋銭など日本美術院に関わる画家、橋本関雪・菊池契月・上村松園・木島櫻谷・小坂芝田・池田桂仙など京都画壇の四条派・南画グループ、鏑木清方・松岡映丘・結城素明・平福百穂といった美術団体「金鈴社」会員など、近代日本画を牽引した人々、また尾崎紅葉・幸田露伴・与謝野寛(鉄幹)といった明治文学を代表する文士らとも文通し、作品や揮毫を入手していました。

 

また正治は、島津公爵家・前田侯爵家・南部子爵家など、旧家・華族から放出された茶道具をはじめとする美術工芸品も多数購入していました。これらは、大正9年(1920)イハ夫人33歳の誕生祝と厄除けを兼ねて建設された離れ「詩夢庵」を飾るために収集されたとも考えられます。同庵は、天井や壁、縁側や床の間には全国から取り寄せた銘木や高級建材が惜しげもなく投入され、建具についても、襖絵は(伝)狩野山楽・(伝)岩佐又兵衛といった安土桃山~江戸前期に活躍した絵師の大作、欄間は能面師後藤良の彫刻が収められました。調度も贅が凝らされ、夫妻の審美眼に適った家具や文房具・茶道具ほか、近世~近代の書や日本画などが室内を飾りました。

 

3ヶ所の窓の装飾は、ステンドグラス作家小川三知に依頼しました。三知は、橋本雅邦に学んだ日本画の素養とアメリカ留学で身に付けた高度なガラス技法を武器に、わが国のステンドグラスの基礎を築いた人物です。宮越家の3点のステンドグラスは、当時のデザイン潮流を意識しながらも、「和」の意匠を巧みに織込み、技巧的なガラス技術の粋が盛込まれていることも相まって、三知の最高傑作と評価されています。

 

また正治は、「詩夢庵」とセットとなる庭園造りにも精力を注ぎました。宮越家には先代要三郎の時代、大石武学流宗家2代高橋亭山(米五郎)が手掛けたと思われる庭園がすでにありました。正治が新たに構想した庭は、敷き詰めた黒玉石を水の流れに見立てた枯山水庭園と、湧水を満たした池を中心とする池泉庭園とが一体となった類例のないものでした。これらの庭園は、「尾別」のアイヌ語解釈「静かに川の流れるところ」から、「静川園」と命名されました。

 

同園は、昭和の初め大規模な改庭がなされ、仏堂「達磨堂」や茶室「松濤亭」といった建造物、織部燈籠・十三重塔・ライオン石などの石造物が追加されました。達磨堂は、弘前市長勝寺から請来した達磨像を安置するために何処の寺社から、茶室は弘前の別邸から移築したものです。石造物の多くは、宮越家のルーツである北陸地方から運ばれました。仏堂・茶室・石造物といった改庭時の新たな要素は、日本画家橋本関雪が京都東山に開いた国名勝「白沙村荘」と共通するものです。正治は、崇敬の念を抱いていた関雪の「白沙村荘」の世界観を、奥津軽に再現したかったのかもしれません。

 

 

<十代・宮越敬治/十一代・宮越靖夫/十二代・宮越寛(現当主)>

戦後の農地改革により、多くの土地を失った宮越家は厳しい時代を迎えることになりましたが、年貢を集める「地主」から、食糧庁が買い取る政府米を集める「政府登録集荷業者」へ転身を図るとともに、化学肥料・農薬販売を手掛け、倉庫建設など設備投資をしながら、現在に至っています。

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宮越家 離れ/庭園 Miyakoshi House Annex/Garden

青森県中泊町

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宮越家 離れ/庭園 大正浪漫かほるステンドグラス
宮越家について 九代・宮越正治から十二代・宮越寛

<九代・宮越正治>

明治18年(1885)要三郎の三男に生まれました。明治37年18歳の時、栄村湊(現五所川原市)の名門平山為之助実妹イハ15歳を娶るとともに、このころ東京牛込に居住していた奥田抱生に師事しました。後に「機山」と号し、書画・漢文・骨董はもとより、建築から庭園に至るまで如何なく発揮された正治の審美眼は、抱生の下で開眼したと思われます。夫人のイハもまた、旧制弘前高等学校教授の彌富破摩雄に短歌を学び、「麗子」の雅号を拝領した一流の歌人です。

 

大正7年(1918)兄二人の早逝により家督を相続した正治は、地主として農林業経営にあたるとともに、銀行や百貨店、酒造・鉄道・電燈など新たな成長分野に投資し、家業拡大に取り組みました。

 

また、実業の傍ら、全国の文化人らと交流を図っていた様子が、大量に残された書簡類から明らかとなっています。横山大観・下村観山・木村武山・寺崎廣業・小川芋銭など日本美術院に関わる画家、橋本関雪・菊池契月・上村松園・木島櫻谷・小坂芝田・池田桂仙など京都画壇の四条派・南画グループ、鏑木清方・松岡映丘・結城素明・平福百穂といった美術団体「金鈴社」会員など、近代日本画を牽引した人々、また尾崎紅葉・幸田露伴・与謝野寛(鉄幹)といった明治文学を代表する文士らとも文通し、作品や揮毫を入手していました。

 

正治は、島津公爵家・前田侯爵家・南部子爵家など、旧家・華族から放出された茶道具をはじめとする美術工芸品も多数購入していました。これらは、大正9年(1920)イハ夫人33歳の誕生祝と厄除けを兼ねて建設された離れ「詩夢庵」を飾るために収集されたとも考えられます。同庵は、天井や壁、縁側や床の間には全国から取り寄せた銘木や高級建材が惜しげもなく投入され、建具についても、襖絵は(伝)狩野山楽・(伝)岩佐又兵衛といった安土桃山~江戸前期に活躍した絵師の大作、欄間は能面師後藤良の彫刻が収められました。調度も贅が凝らされ、夫妻の審美眼に適った家具や文房具・茶道具ほか、近世~近代の書や日本画などが室内を飾りました。

 

3ヶ所の窓の装飾は、ステンドグラス作家小川三知に依頼しました。三知は、橋本雅邦に学んだ日本画の素養とアメリカ留学で身に付けた高度なガラス技法を武器に、わが国のステンドグラスの基礎を築いた人物です。宮越家の3点のステンドグラスは、当時のデザイン潮流を意識しながらも、「和」の意匠を巧みに織込み、技巧的なガラス技術の粋が盛込まれていることも相まって、三知の最高傑作と評価されています。

 

さらに正治は「詩夢庵」とセットとなる庭園造りにも精力を注ぎました。宮越家には先代要三郎の時代、大石武学流宗家2代高橋亭山(米五郎)が手掛けたと思われる庭園がすでにありました。正治が新たに構想した庭は、敷き詰めた黒玉石を水の流れに見立てた枯山水庭園と、湧水を満たした池を中心とする池泉庭園とが一体となった類例のないものでした。これらの庭園は、「尾別」のアイヌ語解釈「静かに川の流れるところ」から、「静川園」と命名されました。

 

同園は、昭和の初め大規模な改庭がなされ、仏堂「達磨堂」や茶室「松濤亭」といった建造物、織部燈籠・十三重塔・ライオン石などの石造物が追加されました。達磨堂は、弘前市長勝寺から請来した達磨像を安置するために何処の寺社から、茶室は弘前の別邸から移築したものです。石造物の多くは、宮越家のルーツである北陸地方から運ばれました。仏堂・茶室・石造物といった改庭時の新たな要素は、日本画家橋本関雪が京都東山に開いた国名勝「白沙村荘」と共通するものです。正治は、崇敬の念を抱いていた関雪の「白沙村荘」の世界観を、奥津軽に再現したかったのかもしれません。

 

 

<十代・宮越敬治/十一代・宮越靖夫/十二代・宮越寛(現当主)>

戦後の農地改革により、多くの土地を失った宮越家は厳しい時代を迎えることになりましたが、年貢を集める「地主」から、食糧庁が買い取る政府米を集める「政府登録集荷業者」へ転身を図るとともに、化学肥料・農薬販売を手掛け、倉庫建設など設備投資をしながら、現在に至っています。

Miyakoshi House Annex/Garden